文・深見東州(本名 半田晴久、別名 戸渡阿見(ととあみ))

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 少しお時間のある方や、「なぜ、こんなに色々な事ができるのか」とか。「どこに、そんなエネルギーがあるのか」とか。「なぜ、こんなに何でもやるのか」とか。かねがね疑問を持ったり、尋ねたいと思う方は、恐縮ですがこの長い文章をお読み下さい。それでも、途中で面倒になれば、貴重な一生のお時間です、すぐおやめ頂き、他に有意義な時をお過ごし下さい。
 さて、書を書く人はたくさんいます。しかし、日本では、書家で水墨画家としても活躍する人は、あまり居ません。また水墨画家で、書の作品を発表する人も、あまり見かけません。どういうわけか、日本では、書と絵画が線引きされてるのです。
 しかし、中国では、書画同源と言います。いい書といい絵画を、両方書く文人画の伝統が、今でも続いてるのです。書と水墨画の違いは、書は筆を立て、水墨画は筆を寝かせる所です。ですが、それはあくまで原則です。また、書は濃墨か淡墨のどちらかに統一させます。しかし、水墨画は、濃淡を織り交ぜる所に妙があるのです。ちなみに、中国では色彩のあるものを絵と呼び、水墨画を画と呼びます。だから、絵画とは、その両方を表わす言葉なのです。
 ところで、私は書を高一から、書道部で始めました。先生は、日展でいつも入選してた、田端曲全先生です。母校の県立鳴尾高校では、古文の先生でした。家の近くでも習ってましたが、三井銀行を定年退職した、電気仕掛けの地蔵尊のような先生でした。だから、退屈で長続きせず、三十五才まで書を中断したのです。三十五才で、現在の竹中青琥先生と出会い、大御所の西川寧先生の孫弟子になりました。その縁で、読売系の謙慎書道会展に出品するようになりました。
 竹中先生は、隷書では女流ナンバーワンの方です。男性よりも、男らしい書を書かれます。特に、そのブッ飛んだ性格が好きで、もう二十八年間師事しています。
 絵画は、三十五歳の時に、全くのゼロから始めました。日本画、仏画、水墨画と学び、西洋画に向かったのです。日本画は、独学で俳画から始まり、四君子(松竹梅蘭)も独学で勉強しました。(故)浅井秀水先生に仏画と日本画を学び、犬飼得之先生に日本画と水彩、墨彩画を学びました。この時に、初めてスケッチを学んだのです。
 なぜ、書も絵画も、三十五才から始めたかと言えば、理由があるのです。この時に、日本文芸社、扶桑社、角川書店、学研、廣済堂などから、次々に本を出版したからです。そして、その読者にせがまれ、色紙を書かざるを得なくなったのです。

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 ところで、犬飼先生から、オーソドックスな日本画やスケッチを学んだ後、(故)安永麦州先生に、独自な水墨画を学び、泥臭く絵の境地を描(か)くことや、一本の筆で全てを表わす技法、また十一段階の濃淡を描(か)き分ける技術を学びました。そして、なによりも、アトリエで美しく描(か)くよりも、大自然の現場で、見たままの感動を描(か)くスタイルを確立しました。これが、麦州流です。
 そうして描いたのが、多くの賞を受賞した「キラキラ天の川」です。これは、完全な水墨画ですが、西洋画的な水墨画とは違う、筆のタッチと濃淡の描(か)き分けで表現する作品です。

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 麦州先生は、冬景色や山水画、花や建物の絵が得意でした。そこで、先生の得意なものを学ぶだけでなく、先生のやらない宇宙や星や夜空を描き、抽象画やメルヘン画を描(か)いたのです。無論、全て水墨画です。こうして、毎月、新幹線で西宮の先生宅を訪ねたのです。そして、この先生を驚かせるのが楽しくて、先生が亡くなるまで学び、競作もしました。その作品が、「墨汁の詩(うた)」という書画詩集です。私の俳句と書に、麦州先生が水墨画を描き加えたのです。

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 それから、中国人の沈和年(しんわねん)先生に水墨画を学び、ペンギンの描(か)き方などを学びました。沈先生の、「似せずして似る」上海流の水墨画技法は、私が独学で学んだ馬驍(まきょう)先生と共通でした。そして、麦州流の筆で、まじめな沈先生を笑わせようと思ってスケッチしたのが、「質問に答えられないトラ」です。沈先生は、あの虎のように、首をかしげて絵の個性を褒め、複雑に笑って下さったのです。
 ところで、西洋画を始めた時、西洋画を教えてくれた松下友紀氏に、たずねました。「西洋画とは、何ですか」。松下氏が答えました。「西洋画とは、何でもありという美術です」「なんだ、そうか。それなら、ぼくに合ってますね」「そうですね」ということになり、西洋画にのめり込んだのです。

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 それまでの、規則にそった絵画から、解放された一瞬でした。
 西洋画は、キャンバスがなくても、紙がなくても描(か)けます。また、画材も絵具も、なんでもいいのです。具象、抽象、立体、自然の造形、これもなんでもありです。体に絵具をつけ、ゴロゴロ転がって描(か)いたり、天井からぶら下がって描いたりもします。何でもありの西洋画は、本当に自分に合ってると思いました。そして、美術の奥深さを実感したのです。
 そこで、美術を本格的に究め、論文にしたいとも思い、52歳の時、中国清華大学美術学院美術学学科博士課程に入学し、書と絵画と美術学を学ぶことにしました。それから、3年をかけ、55歳で博士号を取ったのです。研究活動の一環として、展覧会をしたり、中国の専門書に評論を載せたりしました。
 清華大学の論文の指導教授だった杜(とう)先生は、書も絵画も自由自在で、抜群にうまい方でした。論文の指導教授なので、博覧強記で哲学的な先生でした。
 杜(とう)先生は、中国でも有名な先生です。しかも、杜(とう)先生は笑いながら、煙草(たばこ)を吸いつつ白酒(パイチュウ)を飲み、周囲とベラベラしゃべりながら、見事な書を半切に書くのです。落款も六~七個押します。日本では、落款は一~二個です。しかし、杜(とう)先生は十個押すこともあります。それが、じつに見事に決まってるのです。なんて自由なんだと、私はのけぞるほど驚きました。今まで、色々な先生を驚かせてきた、バチが当たったのです。
 書では、杜(とう)先生には到底かないません。あそこまで、わっはっはと笑いながら、見事な書は書けません。日本人なら、誰でもそうでしょう。そして、王羲之から唐、宋、明、清など、有名な名筆は、なんでも書き分けられるのです。さすがに、中国人です。さすがに、漢字と書のルーツの中国美術家です。
 その代わり、私がばかでかい筆の書や、絵か書かわからない、毎日展風の書を書くと、杜(とう)先生は唸ってました。中国人は、日本人のように思い切った省略や、単純化は、あまり得意ではないのです。そして、イタリア風の色彩や、西洋画の色々なスタイルを使い、日本画、仏画、水墨画、墨彩画を融合したり、バラバラにした作品を展覧会に出すと、「絵画に関しては、東州さんの方が上だよ」と言ってくれました。中国人は、国画と言う中国の伝統技法や、西洋画の伝統技法から、日本人のように柔軟に脱皮はできないのです。近年になって、ようやく差がなくなりつつある段階です。
 また杜(とう)先生は、日本の歴史や文化をあまりご存知ではなかった。だから、美術論や歴史、文化論になると、話せばいつも六時間、八時間の熱のこもった議論になります。お互いに、それが楽しくて楽しくて、いつも時間を忘れるのです。私が卒業する時、杜(とう)先生は、私から日本文化や日本の歴史を勉強できたと、感謝しておられた。私も、中国文化や中国歴史、自由自在な書画の表現、世界の美術や文化評論を学び、多くの事を学びました。そして、心から恩師に感謝した次第です。
 こうして、お互いが刺激し合い、高めあった3年間でした。他にも、個性の違う5~6人の先生に学びました。そして、どの教授も、書と絵画の両方をやっておられたのです。
 個展の新聞広告をご覧になり、驚かれたり、理解できないと思われたかも知れません。しかし、35才から28年間、このように学び続けた結果なのです。突然、何でも出来るようになったのではありません。多くの先生に師事し、かわいがって頂き、一緒に遊んで頂いたお陰です。改めて、先生方に感謝を捧げます。

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 ところで、ピカソは、生涯に1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4千点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作しました。私は、まだ作品数が2727点なので、ゴッホの数は越えましたが、ピカソに比べると、足もとにも及びません。世界には、あらゆる分野で、こんな天才がキラ星の如く居るのです。だから、学ぶ程に謙虚になり、精進せざるを得ません。
 それで、絵と書を合わせた作品数で、ピカソに追い着こうと精進してるのです。仮に1年に200点書くと、100年で2万点です。少なくとも、あと50年生きて、1万点は作ろうと目指しています。110才まで生きると、1万3000点は書けると思います。山岡鉄舟のように、1日に400点の書を仕上げるペースだと、ピカソは越えるでしょうが、紙代(かみだい)は相当かかるでしょう。
 ところで、そもそも、こういう事をやるポリシーの背景には、日本文化の歴史的な芸術哲学があるのです。
 西洋のルネッサンスは、ジオット、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ラファエロが有名です。しかし、日本にも、室町期にルネサンスがありました。観阿弥、世阿弥、能阿弥、善阿弥(作庭家)、芸阿弥(能阿弥の子)、相阿弥(能阿弥の孫)、室町末期の戦国時代には、本阿弥光悦が居り、これらの「阿弥」たちが、今日の日本文化を作ったのです。
 能阿弥とは、東山御物(ひがしやまぎょもつ)を選定した、足利義政のおかかえ芸術家です。初めて、書院飾りを作ったことでも知られます。彼は、能阿弥流の書を初め、万能の芸術家だったのです。だから、世阿弥や能阿弥、本阿弥光悦などは、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロだと言えます。しかも、日本の方が西洋よりも、百年から百五十年古いのです。
 この日本型ルネッサンスの芸術家は、なぜ「阿弥」を名乗ったのでしょうか。それは、南無阿弥陀仏の「南無」は、帰依する意味で俗人をさします。「陀仏」は出家をさします。そして、その中間の「阿弥」とは、俗人と出家の間を指す言葉なのです。さらに言えば、俗人でも出家でもないが、俗人であり、出家でもあった存在なのです。彼らは、「阿弥」と名乗り、死ぬまで芸術の修錬や、向上を通して魂を磨くことを目指したのです。そして、作品とは、その磨かれた魂の表現や顕現なのです。この阿弥の思想は、一遍の時宗の影響とも言われています。
 日本型ルネサンスの芸術家は、出家と俗人の間の、「阿弥」の人生を送った人達なのです。
 そして、私のペンネーム「戸渡阿見(ととあみ)」は、ここから来てるのです。トトは、エジプトの言葉や文章の神様です。そして、「阿見(あみ)」とは、日本型ルネサンスの生き方を意味するのです。私は一生、阿弥の生き方を送り、自分の魂を高め、深め、磨き、それを楽しみながら、明るく面白く死にたいのです。そして、そのプロセスで、多くの作品を残したいのです。
 ヨーロッパのルネッサンスより、日本のルネッサンスの方が、優れていると自信と誇りを持っています。「悟りや思想の奥が浅い、西洋人なんかに負けてたまるか!」「日本男児の大和雄心、大和魂の爆発を見よ!」という、気概と根性で生きてるのです。
 西洋人や西洋文化なんかに負けませんが、こよなく愛しています。そうでないと、日本と東洋に偏った、偏屈芸術家になります。また愛してないと、それらを学ぶ気になれません。これで、はじめてアイデンティティーのはっきりした、インターナショナルな芸術家になれると確信してます。
 しかし、かく言う私も、自分が五十才を迎えた時、つくづく己れの劣化を自覚しました。人間が老化で劣化すると、全てが面倒くさくなります。多様に自在に、より高くより深く、勉強する気持ちが萎えます。これを克服するには、逃げ道のない、目標を持つしかありません。そこで、毎年誕生日の頃に、一年間の新作を発表する、バースデイ個展を始めたのです。それが、今年で十五回目になりました。
 しかし、身内ばかりが毎年集まると、だんだん緊張感がなくなります。そこで、もっと逃げ道をなくすために、個展の新聞広告を始めたのです。新聞広告を見れば、見ず知らずの、書や絵画に興味のある人が来ます。また、それらの専門家も来ます。だから、それらの人々を、唸らせる作品を仕上げようという、新たなモチベーションが涌くのです。このまま行けば、八十才を越えると、絵画仙人や書仙人、または、絵画宇宙人や書道宇宙人になるかも知れません。ですが、あと十年ぐらいは、人間で居られると思います。
 こういう訳で、今年の個展でも、初日の三月十八日は、午前十一時より、開幕式とパフォーマンスを行います。もしご興味があり、ご都合がよろしければ、是非お越し下さい。お待ち申し上げております。
 お経やエッセーのように長い案内文を、最後までお読み頂き、誠に有難うございました。


「墨で個展個展、絵具で個展個展、見るのにてんてこ舞いの個展」
(すみでこてんこてん、えのぐでこてんこてん、みるのにてんてこまいのこてん)

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2015年3月18日(水)~31日(火)

世界最大級の博物館、
大英博物館主催で開催された、
深見東州・書画個展の日本凱旋!

西洋人を驚かせる画家 深見東州
 本名 半田晴久 別名 戸渡阿見(ととあみ)

※本個展では、総作品2727点中、
 大英博物館に展示した書画作品を21点、
 新作を100点以上展示いたします。

ラフォーレミュージアム六本木
    入場無料

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